お坊さん歴20年以上の未熟僧と申します。
- 法事はしなきゃいけないものなの?
- 法事にはどのような意味があるの?
- 法事の注意点を知りたい。
多くの人は【お葬式】と聞けば、『亡くなった人を偲んでお別れをする儀式』とすぐに連想できますが、それが【法事】となればどうでしょうか?
お葬式とは違って、法事では何をしているのかがイマイチ分からないですよね。
そして、何をしてるのかが分からないので「別に法事なんてしなくてもいいんじゃないの?」という心理になります。
じつは、法事をすると、故人はもちろん、あなたにとってもメリットがあるんです。
この記事は、法事に関する根本的なところを解説していますので、法事をしようか迷っているあなたはぜひ最後まで読んでみてください。
法事をする必要性と意味
本記事をお読みいただくにあたり、まずは【法要】と【法事】の違いについて簡単に説明します。
まず【法要】とは、故人の供養のために僧侶が読経や作法をして、参列者は手に数珠を持ってお焼香をするといった『儀式の部分』のことをいいます。
一方で【法事】とは、法要だけではなく、法要後の会食などを含めた『法要に関わる全体』のことをいいます。
この記事でも、法要と法事の2つの表現をしておりますので、それぞれの意味を踏まえた上でお読みください。
法事を執り行うのには、2つの目的があります。
その2つの目的とは、
- あの世で修行中の故人に、感謝と応援のメッセージを伝えるため
- 私たちが仏様からの『お力』や『ご利益』をいただくため
です。
つまり、法事は故人と私たちの双方のために執り行っているのです。
法事(回忌法要)と十三の仏様
法事の説明をするには、まずは仏教で重要視されている13の仏様について触れておかなければなりません。
日本では昔から『十三仏(じゅうさんぶつ)信仰』という、13の仏様に重きをおいた考え方があります。
これは、《亡くなった人は、初七日から33回忌まで、13の仏様に守られて、たくさんのお導き(教え)を授かる》というものです。
そして、故人を守ってくださる仏様は回忌ごとに決まった順で移り変わっていくといわれています。
故人を長きにわたり守ってくれて、悟りへと導いてくださる仏様ですから、どうしたって重要視されますよね。
13の仏様と回忌の関係性は、以下のとおりです。
- 初七日 ➡︎ 不動明王(ふどうみょうおう)
- 二七日 ➡︎ 釈迦如来(しゃかにょらい)
- 三七日 ➡︎ 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
- 四七日 ➡︎ 普賢菩薩(ふげんぼさつ)
- 五七日 ➡︎ 地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
- 六七日 ➡︎ 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
- 七七日 ➡︎ 薬師如来(やくしにょらい)
- 百か日 ➡︎ 観音菩薩(かんのんぼさつ)
- 一周忌 ➡︎ 勢至菩薩(せいしぼさつ)
- 三回忌 ➡︎ 阿弥陀如来(あみだにょらい)
- 七回忌 ➡︎ 阿閦如来(あしゅくにょらい)
- 十三・十七・二十三・二十七回忌 ➡︎大日如来(だいにちにょらい)
- 三十三回忌 ➡︎ 虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)
亡くなった人は、あの世(仏様の世界)に行かれてから仏様の弟子として修行を続けるそうです。
となると、修行をするときにいろいろと教えてくれる『先生』みたいな存在が必要で、それが13の仏様たちというわけです。
そして、その13の仏様たちは、それぞれ持っておられる力やご利益が違うんです。
要するに、13の仏様それぞれに《得意分野》があるということです。
私たちの世界でいえば、国語の先生がいれば数学や英語の先生もいるようなものですね。
亡くなった人は、仏様ごとの教えに導かれて、たくさんのことを学んでいかれます。
修行中の故人に応援と感謝のメッセージを送るため
亡くなった人は、あの世でいろんな修行を続けておられます。
そして、一定期間の修行が終わる頃には、真の意味での『悟りを開く』ことができるそうです。
【修行】と聞くと、苦しいことに耐えながら一生懸命に努力を続けている姿、というのをイメージされるかと思います。
しかし、それは【今私たちのいる世界】で修行をする場合です。
あの世での修行は、苦しみよりも【楽しみ】の方が断然多いらしいですよ。
煩悩(ぼんのう)に染まった私たちには理解できないようなことも、あの世ではすぐに習得できてしまうらしいのです。
そうすると、今まで想像すらできなかったような『宇宙全体の真理』が理解できるようになるそうです。
つまり、全てのことが新発見で、あらゆることが新鮮に感じるので、修行がとても楽しくなる、ということです。
あの世で修行している方々は一体どんなことを教わっているんでしょうね?少しでもいいから聞いてみたいです。
あっ、ぼくが今それを聞けたところで、到底理解できませんね。
話を戻します。
亡くなった人はあの世でいろんな修行を続けているわけですが、時々疲れてしまって修行の意欲が落ちてしまうことがあるそうです。
そこで、定期的に法要を執り行って、「あの世の修行を頑張ってくださいね。私たちのことは心配しなくても大丈夫ですよ。いつも見守ってくれてありがとうございます。」と、
修行中の故人に応援と感謝のメッセージをお伝えしている
わけです。
故人は、法事を通じて、家族や親戚、時には友人たちから応援と感謝のメッセージを受け取っています。
きっと、それが故人にとっては【さらなる修行への励み】になっていることでしょう。
ですから、定期的に法要を行い、その度に心を込めてエールを送ってあげれば、故人はとても喜ぶと思いますよ。
私たちが仏様からお力やご利益をいただくため
法事は故人のためだけに行うものではありません。
じつは、法事を行うことで、
私たちが仏様から『お力』や『ご利益』をいただく
という機会にもなっています。
故人を偲んで法事を執り行うことは、仏教における《善行(ぜんぎょう)=良い行い》を行なっていることになります。
私たちが善行(=法事などの供養)を行うことによって、故人に向けて仏様のお力やご利益がたくさん注がれます。
法事をした場合は、先ほどの13仏の一覧のとおり、それぞれの回忌の仏様から故人に向けて注がれるわけです。
そして、仏様のお力やご利益は、善行をした側の私たちにも注がれるといわれています。
しかも、法事などの供養によって故人が得た仏様のお力やご利益のうち、故人は【7分の1】だけを受け取って、あとの【7分の6】は私たちの元へ返礼のように戻すのだそうです。
ちなみに、このことを『地蔵菩薩本願功徳経・第七章利益存亡品』というお経の中では【七分獲一(しちぶんぎゃくいつ)】という言葉で記されています。
故人を偲んで供養するために法事を行なっているのですが、いつの間にか私たちの方がたくさん【いただきもの】をしているのですね。
せっかく【人】に生まれたのなら法事をしませんか?
仏教を広められたお釈迦(しゃか)様は、私たちが生死を繰り返している世界は『六道(ろくどう・りくどう)』と呼ばれる【六つの世界】で構成されているとおっしゃいました。
簡単に説明すると、六つの世界とは、
- 【天】苦しみがとても少ない自由な世界
- 【人】いろんな苦しみや楽しみがある世界
- 【修羅】争いごとが絶えない世界
- 【畜生】本能のままに生きてしまう世界
- 【餓鬼】常に飢えや喉の渇きがある世界
- 【地獄】全ての苦しみを受け続ける世界
のことです。
地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)の四つは、苦しみや欲望に満ちあふれた世界とされています。
つまり、自分のことだけを考える、あるいは、自分のことだけで精一杯という世界です。
ですから、そこには【他者を思いやる気持ち】や【受けた恩に対する感謝の気持ち】というものがありません。
逆に、願うことが次々と叶い、ほとんど苦しみの無い【天(てん)】の世界ですが、ずっと欲望が満たされて苦しみがほとんど無い状況が続くと、それはそれで【思いやり】や【感謝】といった気持ちが少しずつ消えていってしまいます。
では、私たち人間が生きている【人(にん)】の世界はどうでしょうか。
私たちは、生きている中でさまざまな楽しみがありますが、一方でいろんな苦しみに耐え抜いていかなければなりません。
もしかすると、人生は苦しみの方がずっと多いのかもしれません。
しかし、たくさんの苦しみを経験するからこそ【他者を思いやる気持ち】や【受けた恩に対する感謝の気持ち】が芽生えるのだと思います。
そして、私たち人間の思いやりや感謝の気持ちというものは、今生きている人に対してだけではなく、既に亡くなった人やご先祖様にも向けられます。
法事や先祖供養は、既に亡くなった人たちに対するそのような気持ちがあるからこそできるのです。
つまり、
亡き人を供養するという行為は、私たち『人間』にしかできない
ということです。
私たち人間にしかできないことなのであれば、それをするのが務めというか、それをしないと【もったいない】のではないかなと思いますよ。
縁があって【人】の世界に生を受けたのです、せっかくですから法事をしませんか?
【関連記事】:法事の当日までに施主が準備するべきことを詳しく紹介します。
法事が【三】と【七】を繰り返す理由
13仏のところでも紹介しましたように、法事は、一周忌の後、
三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌・・・
と執り行っていきます。
あなたも既にお気付きかと思いますが、法事における回忌の数は【三】と【七】を繰り返していきます。
なぜ法事がこの2つの数字で繰り返されているのでしょうか?
じつは、法事において【三】と【七】はとても重要な数なのです。
【三】のもつ意味
まず、【三】の説明をします。
私たち人間は、【富・貧】【強い・弱い】【勝つ・負ける】【美しい・醜い】【得をする・損をする】などのように、物事を『二極分化』して考えることがあります。
この二極分化、つまり【2つのどちらか】という考え方は、仏教において『極端に偏った物事のとらえ方』であり、悟りを妨げる考え方とされています。
お釈迦様は、
「2つのうちのどちらか一方ではなく、どちらでもない【真ん中】を見なさい。どちらにも偏らない3つ目の道(=真ん中)が悟りへの道なのだ。」
とおっしゃいました。
【三】のつく回忌で法事を行うのは、【2つのうちのどれか】という考え方から、【真ん中を見る】という考え方が1つ加わった状態《2+1=3》になりますように、つまり、『故人が早く悟りを開きますように』という願いが込められているのです。
【三】にちなんだ回忌で法事を行い故人の供養をすると、故人はさらに悟りへと近づいていく、ということなんですね。
【七】のもつ意味
続いて、【七】についての説明です。
先ほど、私たちが生死を繰り返している世界は【6つの世界(=六道)】で構成されている、ということを書きましたよね?
六道の世界とは【苦しみを味わう世界】であるともいえます。
仏教は『苦しみからの解放』を目指す教えですから、それはつまり、【六道の先にあるもう1つの世界】を目指す教えなのです。
そして、【六道の先のもう1つの世界】こそが、さまざまな仏様のおられる悟りの世界なのです。
ですから、【七】のつく回忌で法事を行なうことには、早く故人が【苦しみの世界(6道)】の先の【もう1つの世界(悟りの世界)】、つまり、《6+1=7つ目の世界》に到達しますように、との願いが込められているのです。
法事の注意点
法事をする上で多くの人が勘違いをしていることがあります。
ここからは、法事をするにあたり注意しておくべきことを紹介します。
法事は【親戚や知人が集まるためのもの】ではありません
法事をする意味は何かという問いに対して、
「法事は故人のために行うものではありません。親戚や知人など【故人に縁のあった人】が集まり、そこでみんなが故人の話をすることによって、遺族の悲しみが少しずつ和らいでいく、これが法事をすることの意味です。」
というような意見があります。
本当にそうなんでしょうか?
それってつまり、一応は『故人の供養』と銘打ってはいるけれど、親戚や知人が集まることの方が重要で、それが法事なのだ、ということですか?
では、もしも親戚や知人が誰も参列できないとしたら、法事をする意味はないということですか?
そもそも、故人を供養するために執り行っている【法要】そのものをする必要がなく、親戚や知人が集まれば、それで十分だということですか?
そうなんですか?何だかオカシくないですか?
確かに、法要を行なったところで『間違いなく故人を供養できた』という目に見える証拠はありません。
それ故に、法要をすることに意味を感じないのかもしれません。
だから、今いる人たちの方に目を向けて法事の意味を考えているのでしょう。
遺族の悲しみを少しずつ和らげることが、法事をする意味の一つであるのは間違いありません。
しかし、それは親戚や知人が集まることがメインではありません。
ちゃんと法要を行い、故人を供養し、『これでまた故人はあの世で仏様に守られて、充実した安らかな日々を過ごすことができるんだな』と信じることで、遺族の悲しみが少しずつ和らぐものだと思います。
そこへ親戚や知人が集まることで、さらに法事をする意味が付加される、ということだと思います。
法事というものは、まず故人の供養を第一に考えて【法要を行うこと】ではないでしょうか?
一人でも法事はできる
最近では法事の参列者数が減少傾向にあり、【家族のみ】で法事をするという家が増えています。
ですから、ときどき【参列者は施主一人だけ】で法事をするということもあります。
そうです、ぼくが読経をして、ぼくの後ろで座っているのは施主一人だけです。
回忌法要をする上で、参列者の【人数】が多くても少なくても、法要内ですることは全く同じです。
そこにいるのが一人でも百人でも全く同じです。
ただ、参列者の人数が多いと、その分だけお焼香に時間がかかってしまいますから、法要全体の時間は長くなりますけどね。
でも、違うのはそれだけです、法要の内容は全く変わりません。
最近よく、
「参列できる人数が本当に少ないんですけど、それでも法事はできますか?」
という質問をされます。
そのような時、ぼくはいつも、
「大丈夫です、何も問題ありません。供養しようという人が一人でもいたら法要は行います。」
とお伝えしています。
ですから、法事をする際に参列者が少なくても全く気にすることはありません。
逆を言えば、たとえ一人でも法事はできますので、もしもあなたが法事をしたくないと思っていても「人数が少ないから、法事はしても意味ないよね。」というのはただの言い訳になっちゃいますのでご注意ください。
また、法事に人数は関係ないので、それはつまり【お布施】の金額も変わらないということですから、この点も注意してくださいね。
法事はいつまで続けるの?
法事をしようと思ってはいるものの、それを一体いつまで続けるものなのか。
これは多くの人が疑問に思うところです。
あなたもそうではありませんか?
お坊さんの立場としてお答えすると、
『本来はずっと続けるものなので、いつまでという期限はありません。』
となってしまいます。
でも、現実にはそんなの無理ですよね。わかってます、一応お伝えしておきたかっただけですから。
法事における区切りの目安となるのは、
33回忌(=他界されてから32年目)
です。
一般的には、33回忌の法要をもって『弔い上げ(とむらいあげ)』といい、それ以降は法事をしなくても問題はないとされています。
誤解しないでくださいね、法事をしなくても問題はないだけであって、完全にストップするものということではありません。
33回忌が最後の法事だという人がとても多いのですが、そうではありませんので十分にご注意ください。
33回忌を迎える頃というのは、【あの世で故人が行なっている修行が一段落する】だけです。
ですから、先ほど説明したような【故人の修行を応援する】という目的で行う法要はしなくてもよくなる、ということです。
故人は、自分自身を向上させるための修行が一段落すると、次に私たちを守り導くことに専念されるそうです。
したがって、33回忌以降の法事は、【故人がずっと私たちを守り導いてくれていることへの報恩感謝】という目的で執り行うのです。
先祖供養に近い意味合いとなってくるわけですね。
33回忌以降は法要の目的が変わるだけなので、本来であれば37・43・47・50・100回忌と法事は続いていくのです。
私たちが今ここに存在できるのは、両親や両祖父母、そしてたくさんのご先祖様がいて、絶やすことなく生命を繋いでくれたからです。
ご先祖様達に直接会ってお礼は言えませんが、法事をすることで報恩感謝の気持ちを伝えることができます。
その気持ちは伝え続けるべきなので、供養に期限というものはありません。
しかし実際のところ、ほとんどの人は33回忌で打ち切りますし、そもそも33回忌まで続ける人が少なくなってきました。
それも仕方のないことかもしれませんね。
法事をするには、いろんな準備をしなくちゃいけませんし、費用だってそれなりに必要になりますから。
できれば、頑張って33回忌まで法事をしてほしいというのがぼく達お坊さんの本音ですが、現実的に考えれば、無理のない範囲で供養を続けていただくのがイイかと思います。
法事を永く続けてくれる信者さんに対しては、お寺の方だって感謝しているものです。
もしもあなたが、【法事にかかる費用】のことで悩んでおられるのなら、お寺に相談をしてみてください。
ウチの寺もそうですが、多くのお寺は、施主の事情を考えてそれなりに対応してくれるはずですから。
まとめ : 法事は大変ですが、できるだけ続けましょう
法事をするとなると、事前の準備なども含めていろいろと大変ですよね。
施主をつとめる人は特に大変ですから、法事の全てが終わる頃には、心身ともに疲れ果てていることでしょう。
そんな時、「法事ってやんなきゃダメなのかな?こんなことをして意味があるのかな?」って思っちゃいますよね。
でも、そんなあなたを見て、故人はきっと感謝していると思いますよ。
あなたが心を込めて故人を供養して、故人はそれに対して返礼をします。お互いに施しをし合うわけですね。
ちなみに、これを仏教では『回向(えこう)』といいます。
法事は、参列者のみなさんと故人がお互いに施し合って、その結果、お互いが幸せな方向へ進んでいきます。
こんな素晴らしいことはないと思いませんか?
もちろん、「法事を絶対に行なってください」とは言いません。大変なことだと知っていますから。
でも、法事をしなかった事を、後々まで悔やむ人もいます。ずっと心のどこかに引っかかっていると言ってました。
もしもあなたが、法事を行うかどうか【迷った】のなら、それは行なっておいた方がいいかもしれません。
あなたとしてもその方が気持ちが晴れるのではないですか?
法事は数年に一度のことです。
できるだけ法事を行なって、あの世の故人と通い合う貴重な時間をたくさん過ごしてほしいなと思います。