この記事は、
- 位牌とは何なのか
- 位牌は必要なものなのか
ということについて書いています。
人が亡くなると、お葬式を執り行って、その後は仏壇に位牌を祀(まつ)って故人を供養します。
あなたは、なぜ位牌を祀るのか不思議に思ったことはありませんか?
位牌はいろんな木材で作られていますが、どれもだいたい同じような形をしていることも不思議に思いませんか?
そして、そもそも位牌は必要なものなのでしょうか?
この記事では、そんな疑問をお持ちのあなたに向けて、位牌についてわかりやすく解説しています。
きっとあなたが思っている以上に『位牌は素晴らしいもの』であることがおわかりいただけますので、ぜひ最後までお読みください。
位牌とは何なの?
あなたは『位牌(いはい)』がどのようなものか答えられますか?
たぶん、「何度も見たことはあるけど、それが何なのかはちゃんと説明できない」というカンジではないでしょうか?
位牌とは、故人の、
- 戒名(または法名)
- 亡くなった年月日
- 亡くなった時の年齢
- 俗名(ぞくみょう)=生前の名前
が記されている木製の札のことです。
そして、位牌はほとんどの場合、仏壇の中に安置されています。
私たちは、仏壇の中の位牌に向かって手を合わせ、朝夕の挨拶をしたり、いろんな報告をします。
家庭にある仏具の中でも、位牌は特に大切に扱われているものです。
昔は、「火事になったら、まず位牌を持って逃げろ。」と言われていました。
それくらい位牌というものは、とても大切に、まるで【故人そのもの】のように扱われます。
まずは、位牌とは一体何なのかということを解説していきます。
位牌の起源
仏壇の中に当たり前のように祀られている位牌ですが、一体どのようにしてできたものなのでしょうか?
位牌の起源とされるものはいくつかの説があります。
まず、仏教発祥の地であるインドには位牌というもの自体がありませんから、位牌の起源はインドにはありません。
位牌は、中国の『儒教』が起源だとされる説が有力です。
儒教では、
死者の霊の拠り所として【生前の官位】や【名前】を札に書き記す
という風習がありました。
インドで始まった仏教が中国へ伝わり、中国から日本へ伝わる時にこの風習が一緒に伝えられた、と考えられます。
これが位牌という形で現在でも残っているわけですね。
位牌の意味:位牌は依代(よりしろ)の役割をするもの
私たちは、位牌を祀ることは死者の霊を祀ることと同じであると考えて、位牌を【死者を象徴するもの】として扱っています。
でも、故人の魂がずっと位牌の中にいるわけではありません。
位牌とは、私たちが故人に向けて大事な何かをお伝えする時、また反対に故人が私たちに何か大切なことを伝えたい時、
【一時的】に故人の魂が宿る場所
なのです。
つまり、位牌は、
故人の魂が宿る『依代(よりしろ)』
の役割をしているものなんです。
また、位牌は故人専用の連絡ツールにもなっています。
つまり、位牌は故人の魂が宿る場所であると同時に、私たちと故人を直接繋いでくれているものです。
現在でいう『携帯電話』みたいなものですかね。
私たちが故人に伝えたいことがある時には、位牌に向かってお伝えすれば、位牌を経由して故人に届くというわけです。
位牌というものは、普段はこの携帯電話の役割だけをしています。
故人はあの世で仏道修行に励んでおられ大変お忙しいので、私たちが位牌に手を合わせる度に毎回わざわざ位牌に宿ってもらうわけではありません。
でも、法事やお盆供養などの法要をしている時、家族の大事な報告をしている時などは、故人はちゃんと位牌に宿ってくれています。
位牌の開眼供養をする
新しく位牌を購入したら、お坊さんに依頼して必ず『位牌の開眼(かいげん)供養』をしてもらってください。
購入したまま何もしなければ、その位牌は、
ただの木札
のままです。
開眼供養をすることによって『位牌』としての役割を果たすようになります。
先ほどの携帯電話の例でいうと、携帯電話の端末(機械本体)を買っただけでは通話ができませんよね?
ちゃんと回線手続きをしてからでないと通話ができません。
開眼供養とは、この回線手続きと同じ意味をもつのです。
逆に、昔からある古い位牌を新しいものに作り直す時、あるいは完全に処分する時には、回線の解約手続きに相当する供養が必要になるのです。
これを『閉眼供養(へいげんくよう)』といいます。
ですから、位牌を新しく作り直した時は、
- 古い位牌の閉眼供養をする
- 新しい位牌の開眼供養をする
- 古い位牌の処分(お炊き上げ)をする
という流れとなります。
位牌は【お墓】の縮小版
あなたは位牌を見ていて、位牌が何かに似ていると思いませんか?
位牌は、『お墓』に少し形が似ています。
位牌とお墓はいずれも、土台の部分が2段ほどあって、一番上の部分の表と裏には文字が記されています。
じつは、
なんです。
人が亡くなると、昔はご遺体を、現在ではご遺骨をお墓へ埋葬します。
そして埋葬後は、お墓に向かって手を合わせ、お供えをして、故人に向けていろんなことをお墓を通じて伝えます。
この【お墓】もまた位牌と同じように『依代』の役割をしているのです。
というか、お墓の方が順番としては先です。
お墓参りは、本当であれば【毎日行うもの】なのですが、そんなことは無理ですよね?
あなたにだって仕事がありますし、休みの日には家族と一緒に過ごしたり、ゆっくりと身体を休めたいですものね。
ですから、お墓参りに毎日行くというのは現実的なことではありません。
そこで、毎日お墓参りには行けないので、自宅に【お墓に代わるもの】として位牌を祀るようになったのです。
そして、位牌の形も次第に【お墓】に近くなっていきました。
毎日お墓参りには行けないけれども、位牌だったら毎日お参りすることができますからね。
位牌はお墓の代わりとして、自宅にいながらあの世の故人と繋がるための大事な仏具なのです。
位牌は必要なのか?
ここまで位牌について解説をしてきましたが、もしかして、
「位牌が何なのかはわかったけど、位牌は【必要なもの】なの?」
と思っていますか?
位牌は【必要なもの】なのかどうか、これは多くの人が疑問に思うところです。
結論としては、
【必要】というわけではない
となります。
意外な答えでしたか?
まず、位牌というもの自体が宗教に付随するものなので、あなたにとってそれが「必要のないもの」だと思うのなら、位牌は不要です。
宗教は、その教えの内容や、教えにまつわる道具の効果や役割を『信じる』ことで成立します。
ですから、もしも「この木の札に故人の魂が宿るなんて、そんなのとても信じられない。」というのであれば、あなたにとってそれは【ただの木の札】ですから無理に購入することはありません。
他にも【必要】とまではいえない理由があります。
先ほども言いましたように、位牌は『お墓の縮小版』なのです。
つまり、もしも家の近くにお墓があって、毎日でもお墓参りができるような環境であれば、位牌が必要というわけではなくなります。
位牌の元であるお墓にお参りできるのであれば、本来はそれが理想的なことなのです。
お墓参りに毎日行けるのであれば位牌がなくても問題はありません。
また、
- お墓はあるけど、家のすぐ近くではない
- 仏教に対する不信感があるわけでもない
- それでも位牌の必要性は感じない
という人だっていることでしょう。
そのような人は、一旦は位牌を作製せず、その代わりに『過去帳(かこちょう)』を購入しておきましょう。
過去帳とは、簡単にいうと、
亡くなった人たちのことが書かれた帳簿
のことです。
過去帳には、【位牌に記されていることと全く同じ内容】が記帳されています。
過去帳はただの帳簿なので開眼供養をする必要がありませんし、しかも故人の戒名などの情報もしっかりと記録できる便利なものです。
でも、亡くなった故人を身近に感じていたいという人は、ぜひ位牌を祀っていただきたいなと思います。
位牌はあの世とこの世を繋いでいますので、私たちから故人へ、逆に故人から私たちへ、位牌を通じてお互いにいつでもすぐにメッセージを伝えられます。
そして、位牌は故人の依代なので、故人が家族の様子を見たくなった時には、いつでもすぐに見に来ることができるのです。
そういう意味では、位牌はご家族にとってだけではなく、故人にとっても大事なものであるといえるのではないでしょうか?
ですから、お坊さんとしての意見ではありますが、できるだけ位牌は祀ってもらいたい、位牌を祀らなきゃもったいない、とぼくは思っています。
まとめ:位牌は私たちと故人を繋ぐ大事な依代です。
位牌は、亡くなった人が宿るための【依代】の役割をする大事なものです。
そして、位牌を通じていつでも故人と繋がることができます。
あなたも位牌の前で手を合わせたことがありますよね?
その時に何となく【目の前に故人が来ている】ような気がしませんでしたか?
おそらく、あなたが手を合わせている様子を、位牌に宿った故人が優しい笑顔で見ていたのだと思いますよ。
もしも「そんなものは信じられない」と思うのであれば、無理に位牌を祀らなくてかまいません。
位牌は【強制】されるものでもありません、そして【必要】というわけでもありません。
でも、あなたが『故人を身近に感じていたい』という場合は、ぜひ位牌を祀ってください。
故人を身近に感じていたいという気持ちがあるのは、あなたが故人のことを大事に思っている証拠です。
あなたのその気持ちは、位牌を通じてしっかりと故人に伝わります。
そして、故人も、そんなあなたのことをしっかりと守り導いてくださいます。
位牌があるおかげで亡きご家族といつでも繋がっていられるのです、こんなにありがたいもはないとぼくは思います。